コラム:『にくてん』を食す
『にくてん』を食す
単身赴任者にとって何が一番困るかというと、休みの日をどのようにして過ごそうかということではないかと思う。
小生の場合、月に一・二度は千葉の自宅に戻るわけであるが、そのほかの休日は当然のことながら一人寂しく過ごさなければならない。
なにごとも経験をしてみなければわからないことではあるが、傍目から見て、単身赴任というのはなんとも自由で気楽な身分だと思われているのではなかろうか。実は小生も経験するまではそう思っていたものである。
ところがどっこい、これが経験してみると、確かに最初の一ヶ月ぐらいは、まるで籠を飛び出した小鳥のようにのびのびと楽しく暮らすことが出来るのであるが、それもまあほんの束の間の出来事であって、だんだんとつまらなくなってくる。
なにせ部屋に居ても話し相手もいないわけだし、それこそ壁に向かってぶつぶつ話をするわけにもいかない。もしも、そんなふうになったら、これはもう病院に行った方がいいということなってしまう。
まあ、土曜日曜と二日続けて休みが続いた場合、土曜日はまず外に出て行く。映画を見る。ゴルフの練習をする。人によってはパチンコに熱をあげる人もいるであろう。それはそれでよしとして、問題は二日目である。午前中はまだいい。洗濯をする。掃除をする。しかし、それが終わってしまうと何もすることがない。じっと部屋でテレビを見ている。特別面白い番組があればそれもよいが、あまり精神的によろしくはない。一時間もじっとしていると、どうしても外に出たくなる。
そんな、まさしく午後から何をするか悩ましい日曜日のお昼時のこと。小生は机の上に広げたパンフレットを見ながら、じっと考え込んでいた。
パンフレットには、「にくてんマップ」と大きな文字が書かれている。
小生はこの時、昼に何を食べようかと真剣に、それこそ普段の仕事場ではとても見られないぐらいの真面目さで考えていたのである。
にくてんMAP(表)
にくてんMAP(裏)
「にくてんマップ」を広げると、大きく地図が書かれており、そのまわりに十幾つかの店の名前が写真付きで掲載されている。表に返すとそれぞれの店のコメントが記されている。そして、その横には「にくてんとは?」という解説まで載っている。
そうそう、そうだよな。「にくてん」というのはいったいどんな食べ物なのか。それを知らなきゃ勝負にも何にもなりゃしない。
ええと、それでは、何々……。
「にくてん」とは、高砂流のお好み焼きのこと。
ほー、いいねえ。いいじゃないの。それから、それから。
味付けされ煮込まれたじゃがいもが入っている。
ふむふむ、なるほど。
とにかく具がたっぷり!
すじ肉やこんにゃくが絶妙な食感をつくりだす。
中にも秘伝のソースをぬります。
ああ、こりゃどうにも堪りませんな。いや、これはもう食べてみるしかないでしょう。
よし、今日の昼飯は「にくてん」に決めた、ということで、立ち上がりかけたものの、いや、いや、ちょっと待て。食べるのはいいとして店はどうする。まあ、初心者の常としてまずは近い店から攻めてみるとするか。
そこであらためて「にくてんマップ」を広げてみることにする。
ところで、この「にくてんマップ」、なんと制作したのは、「松陽高校商業科」の生徒さん達とのことなのだが、それにしてもうまくポイントをおさえて要領よく作ってある。見ているだけで「にくてん」を食べてみようかなと、興味がどんどん沸いてくる楽しいパンフレットである。
(※注:現在、にくてんMAPは松陽高校から“にくてん食わん会”に運用が移転されています)
それはそれとして、そうそうお店を決めなくては、この先の話が進まない。
ええと、小生の住んでいる寮は松陽中学校のすぐ傍であるからして、一番近い店は、ああ、ここだ。新幹線の線路脇にある「ヒロ」、よし、ここに決めた。
ということで、小生、愛用の黒いバックを肩から掛けると、勢いよく表へと飛び出したわけであります。
まずもって天気は上々。秋の空は澄み渡ってどこまでも明るく青い。こんな日に誰が部屋に閉じこもっていられますかってんだとばかりに、松村川べりを一路北へ北へとさかのぼる。
あっという間にコープ高砂を通り過ぎて、遠くに桜並木の間から新幹線の高架が見えてくる。
それにしても「にくてん」というのは、いったいどんな味をしているのであろうか。
にくてんMAPに載っているのは“こんな感じ”だが・・・。
小生、ちょっと見た目は穏やかな性格に見えるが、その実、内面は母親譲りの好奇心の固まり。今までにも熊、むじな、イルカ等々、普通の人ではちょっとやそっとでは味わえないものでも食べてきた。その結果、小生なりに思っている日本の三大珍味というのがあって、一に「近江の鮒すし」、二に「くさやの干物」、三に「沖縄でよく食されるヒージャ(山羊)の刺身」ということでランク決めがなされている。
それは、まあさておき、「にくてん」である。いや、いや、楽しみ、楽しみと思いながらわくわくどきどき歩いて行くと、やっと見えてきましたよ、「ヒロのお好み焼き」という赤い看板が。そして、さらに歩くこと一・二分で店の前に到着。
さて、それでは入りましょうか、とばかりに引き戸を開けると、まずはどんと真中に鉄板がしつらえられたテーブルが三つほど目に飛び込んできた。
ああ、いいねえ。お好み焼き屋は、あんまり大き過ぎちゃいけない。こじんまりとした雰囲気があってこそ庶民の食べ物屋、これぞお好み焼き屋だ。さらに目を右の方にやるとカウンターがあって、そこにも鉄板がしつらえてある。
お客はというと、一組のご夫婦と見られるカップルと、あとは男性客が一人いるだけ。
ゆっくりと腰を下ろして、目立たぬ程度に店の中を眺める。お品書きがずらっと並んでいる。「にくてん」は四百円。まずは手ごろな値段ではないか。ちなみにビールの中ビンは三百五十円。
カウンターでは、おばちゃんがもくもくとお好み焼きを焼いている。店の名前が「ヒロ」というからには、もしかしたら、このおばちゃんの名前は「ヒロ子さん」というのかな。いやいや、それとも「ヒロ美さん」というのかもしれない。思いきって、「ヒーロちゃん」なんて声をかけてみようかな。
とかなんとかよけいなことを考えているうちに、段々と手持ち無沙汰になってくる。仕方がない。ここいらでひとつ注文でもしますか。
「あの、済みません。ビールとにくてんを下さい」
「にくてん」と聞いて、おばちゃんの下を向いていた目がちらっと上を向いた。しかし、それもほんの一瞬のことで、すぐに鉄板に目を戻すと、
「ビールは大ビン、中ビン、ありますけど」
と、聞いてきた。
「中ビンを下さい」
その時、小生の頭越しに、
「わしにも中ビンをおくれ」
と、これは野太い男性の声。
「中ビンなあ、一本しかあらへんわ。○○さん、あんた、大ビンにしとき」
それで納得したのかどうかはわからないが、まずは一件落着したのであろう。おばちゃんが、それぞれのテーブルにビールとコップを持ってきてぽんぽんと置いていく。
よく冷えたビールをコップに注ぐと、泡がもくもくと立ってくる。それを一気にぐっと煽る。
うまい。
なんとも昼酒というのは堪らないもので、当然のことながら、普段、職場にいてはとても味わえない喜びがある。これこそまさしく至福の時、自然と顔がほころんでくるのが自分でもよくわかる。
そうこうするうちに、おばちゃんが「にくてん」を作りはじめた。
鉄板に敷いた生地は普通のお好み焼きよりもかなり薄い。その上からなにやら粉状のようなものをまき、さらに具を乗せていく。あの具はいったいなんなのか。じゃがいもなのかすじ肉なのか、はたまたこんにゃくなのか。かなり細かく切ってあるので、遠目からではよくわからない。
おばちゃんが、今度はキャベツを載せた。さらにその上からまたまた具を乗せる。小生にはよくわからなかったが、いつの間にかソースもかかっている。
見ているだけで、食欲がわいてくる。ビールを飲むと、腹がきゅっと鳴った。
ほどよく焼けたところで、おばちゃんが「にくてん」を運んでくる。あとはお好みでソースと青海苔をかけて食べるだけである。
それでは、さて食べるかといきたいところであるが、なかなかそうはいかない。実はここでやっておかなければならないことがもうひとつある。
小生、休みの日の外出時には、必ず持っていくものがひとつある。それは愛用の黒いバックで、肩から掛けることが出来るとても便利なものである。
この黒いバック、見た目は普通のバックであるが、中身はとなると、これがまあいろいろと入っている。
いったい何が入っているのかというと、小銭入れ、免許証、使うか使わないかに関わらず種々のカード、携帯電話、携帯ラジオ、小型の懐中電灯、ほとんど読まない文庫本、タオル、帽子、ビニール袋、ティッシュペーパー、バンドエイドに手袋、そしてこれから当る予定の宝くじ等々、とにかくいろんなものが入っている。
その中から小生が取り出したのは、一台のインスタントカメラである。
とにかく、生まれてはじめて食べる「にくてん」をカメラに収めておこうと、パチリと一枚撮っておく。よしよし、これで心置きなく食べることが出来るというものだ。
では、とばかりに、手元に置いてあった小さなコテを使って手ごろな大きさに切る。そこで何気なく前を見ると、小さなコテにお好み焼きの一片を乗せて、今まさに口にはこんで行こうとする、先客ご夫婦カップルの顔が目に映った。
おお、そうか。お好み焼きは関西が本場。本場では、こうやって食べるものなのか。それならば、小生もと。
傍目から見れば、危なかっしくて見ておれなかったに違いない。それでも食べる方は真剣である。なにせ、コテに口をつけずに食べようとするものだから、なかなか難しい。それでも、何とか口の中に収めることが出来た。
ソースの香りが口中に広がる。熱いので、ゆっくりと噛む。ぷちぷちと柔らかいこんにゃくの食感と、少し固いすじ肉の食感とが微妙に交わって楽しい。少し甘味があってふんわりとした食感は、じゃがいもであろうか。
ここでビールを一口。ああ、「にくてん」とビールのなんと相性のいいことか。この「にくてん」、ビールのお伴にもいいかもしれないが、ちょっと小腹が空いた時のおやつ代わりにもいいかもしれない。
とにかく、あとは、「にくてん」をほおばり、ビールを飲み。時には、「にくてん」をほおばり、ほおばり、さらにほおばってからビールを飲み。至福の時はあっという間に過ぎ去って行く。
最後に一口だけ残ったビールを飲み干した時、「にくてん」はすべて小生の胃の腑の中に収まっていた。
満足感と、それに相反するような、もう少し食べていたいという欲望とが、頭の片隅で小さないさかいを起している。
おばちゃんは、相変わらずお客のお好み焼きを焼いている。
そういえば、また客が一人増えている。
仕方がない。名残は尽きぬがここいらで退散するといたしますか。ビールで少しけだるくなった体を奮い起こして立ち上がる。
勘定を済ませて表に出ると、ふたたび秋の日差しが小生を待っていた。早足で歩いて来た道を、今度はぶらりぶらりとゆっくり戻る。
ああ、それにしても美味しかったな、「にくてん」。また、ビールと一緒に食べたいものだ。それはそれとして、東播磨版「どっちの料理ショー」とか何とか銘を打って、「にくてん」対「かつめし」などという番組が企画されたら面白いのになあと考えた。
松村川の桜の枝が、風に微かに揺れている。
「にくてん」を食べただけで、これだけ幸せな気分になれる男も、そうそうはいないだろうなあ。
そのとおりとばかりに、魚が一匹、川の面を飛び跳ねると、滑った体を秋の日にきらりと光らせながらふたたび水の中へと戻っていった。
にくてんMAPにはホームページアドレスも掲載されていますので合わせてご紹介します。
http://www.winwin.ne.jp/~takasago-cci/nikuten/
[作成:高砂にやって来た単身赴任者]
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